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2007/08/26

『国銅』を読んで「芦屋釜の里」へ

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福岡県中間市在住で、八幡厚生病院の精神科医でもある(追記・今は芦屋から10km上流の中間市にあるメンタルクリニックの院長をされているようです)作家・帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏の『国銅』(新潮文庫)を読みました。

長門の奈良登り(現在の山口県美東町長登銅山)で掘られ、精錬された銅が、大変良質だということで、これが奈良の大仏造営に使われることになります。
精錬の技術を買われた奈良登りの人足たちが、大仏鋳造のためにその銅と共に東大寺に派遣されるという苦悩を描いた長編小説です。
ちょうど先日、大仏開眼の翌年に東大寺に赴任した鑑真和上の坐像と対面したばかりでしたので、この天平の歴史物語にどっぷりハマり、一気に読み終わりました。
当時あの奈良の大仏が出来上がるにはどれほどの人の血と汗が注がれたのか、ひたむきに生きる最下層の青年の視点から見た国を挙げての一大事業に、一種の理不尽さなども感じながら。

ところで、先日の記事では、鑑真和上坐像が「脱活乾漆法」という方法で作られていることを書きましたが、奈良の大仏はどうやって作られているのでしょうか。

大仏は巨大な鋳物なのでした。
まず支柱を組んだ上に粘土で大仏の塑像を作ります。
その外から粘土をあてて型取りし、外型をつくります。
外型をはずした後、塑像の表面を削って中子(中型)とします。
中子の上に外型を戻し、間にできた隙間にこしき炉で熔かした銅を流し込みます。
大仏は巨大ですから、下から上に向かって8段に分けてこれを繰り返します。
最後に外型を取り去ると、銅像が現れます。
背中に開けた穴から中の土を掻き出し、空洞にします。
頭の螺髪は別に鋳造し、はめ込まれます。
完成当時は表面に金が塗られ、きらびやかなものだったそうですが、その後2度の火災で壊れ、現在天平当時のものが残っているのは仏像や台座のごく一部なのだそうです。

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古の鋳造技術の物語を読み進むうちに、前々から行きたかった芦屋釜の里を訪ねようと思い立ちました。
響灘に面した遠賀川河口の町、芦屋は、原料の砂鉄や鋳型に使う土が近くにあり、遠賀川の水運や玄界灘の海運によって燃料の木炭の入手や製品の積み出しが容易であったことから、かつては鋳物業が盛んで、とくに室町時代には茶の湯釜の名品が作られており、当時は「西の芦屋、東の天命」と称されたそうです。
現在重要文化財として残っている茶の湯釜9点のうち、8点が芦屋、1点が天命(栃木県)ということですから、いかに芦屋釜の質が高かったかがわかります。
ところが残念なことに、芦屋での鋳物作りは、後ろ楯となっていた大内氏の衰退と共に1600年ごろに廃れてしまいました。

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平成7年にこの芦屋釜の里に工房ができ、芦屋釜の技術を現在に甦らせようという研究が始まりました。
ところが、実際にやってみると、砂鉄からつくる鉄は錆びにくい反面もろく、芦屋釜の特徴である薄さを出すのはとても困難だったそうです。
芦屋釜の外型や中子は、大仏のように原型となる塑像から作るのではなく、外型、中子のそれぞれを、挽いて作るのですが、これも精度の高い高度な技術が必要なのだそうです。
釜の表面の模様が、外型の内側の粘土を押して描かれているというのも驚きでした。
展示室には平成の芦屋釜が陳列され、驚くほどの精度で行われる作業を記録したビデオを見ることができます。

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工房の外に置かれたこれは鉄を熔かすこしき炉でしょうか。
2mmという驚異的な薄さの室町の芦屋釜の秘密は、低温で鉄をさらさらに熔かすこと。
高温でさらさらにするのは容易ですが、そうすると鋳物にした際にガスが発生したり、温度が下がる際の収縮したりして、壊れやすくなるそうです。
こしき炉で木炭と混ぜて鉄を熔かすことにより鉄に炭素が含まれるようになり、さらに炉が酸化が起こりにくい構造になっていることで、低温でさらさらを実現していることが、工房での研究で解ってきて、平成の芦屋釜も、少しずつ室町の名器に近づいているそうです。
工房内の様子も外から眺めることができます。

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茶室などが配置された広い園内を散策し、

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お抹茶とお菓子をいただきました。
小芋と芋の葉を模った和菓子がとてもかわいい。

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お土産は「銘菓あしや釜」。
これは以前から大好きな、上品な味の最中です。
茶色い方は小豆、白い方はうぐいす餡になっています♪
黒崎の井筒屋でも売られていますが、すぐに売り切れて、なかなか手に入りません。

さて、一時代を築いた芦屋の鋳物師たちは、どこでその技術を学んだのでしょうか。
芦屋の鋳物のパトロンであり、長門の長登銅山の所有者でもあった守護大名の大内氏。
その先祖多々良氏は、たたらという名前が示すように、精錬技術をもつ渡来人であったといわれます。
『国銅』にも記述がありますが、銅山での精錬や奈良の大仏の鋳造に当たった技術者も、多くは渡来人でした。
芦屋は、銅ではなく鉄の鋳造ですし、芦屋釜の隆盛は大仏の鋳造からはずっと時代が下りますが、芦屋での鉄の鋳造は奈良時代から行なわれていたらしいので、技術の伝承のルーツとして、何かつながりがあるのかもしれません。

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芦屋の夏井ヶ浜にはハマユウの自生地があります。
この浜に海から流れ着いたハマユウの種が芽を出したのが始まりとされます。
どこかから来て花開いた芦屋釜の技術は、いったん枯れてしまいましたが、今また花開こうとしているようです。

追記:
後日、『国銅』の長門長登銅山と同様、奈良の大仏建立にも使われた香春岳の麓の古い銅の採掘所を訪ねました。
 ・・・ あかがねの空に誘われ銅の道

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コメント

芦屋釜・・。長年北九州に住んでいますが、全然知りません
でした。全国的に名を馳せていたなんて凄いですね。そして
その伝統技術を蘇らせようという取り組み、素晴らしいこと
だと思います。これは芦屋の町おこしにも一役買っているの
かな・・?。

茶釜って一般的な家庭にはほとんど縁のないもので、工芸品
としての需要しかないでしょうから、なかなか認知され難い
という困難さもあるとは思いますが、この取り組みがうまく
行くといいですね。

投稿: wanwanmaru | 2007/08/28 00:43

>wanwanmaruさん
茶釜の他にもお寺の梵鐘なども作っていたようですが、どちらにしてもあまり身近なものではありませんね。
最近出た朝日新聞社の『週間人間国宝』64号に、芦屋釜を甦らせる「角谷一圭」という人間国宝の方が出ていましたし、芦屋釜復興工房での研究の様子は朝日新聞地方版でも連載中です。
工房には人間国宝の方がいるわけではありませんが、若いお兄さんが仕事をしていました。

今でも茶道をやっている人はかなりいるようですから、その道では芦屋釜は有名なのかもしれません。
町興しになるかどうかは分かりませんが、他所にはないものがここで作られているというのはすばらしいことですね。

芦屋釜の里は、日本庭園にもなっているので、紅葉の頃行ってみられてはいかがでしょう。
近辺には海産物も豊富ですよ。

投稿: 二つ目草 | 2007/08/28 01:23

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