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2007/09/12

あかがねの空に誘われ銅の道

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この銅色(あかがねいろ)の朝焼けは、偶然いにしえの銅の道に入り込むことになる予兆だったのかもしれません。

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この間の日曜日、日田彦山線沿いの田園風景でも撮ってこようかなどと漠然と思い、出かけました。

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上り列車行き合いのため10分停車しますという車内アナウンスに促されるように降り立ったホームは「採銅所」駅でした。

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先日、『国銅』を読んで「芦屋釜の里」を訪ねるなどして、奈良から室町時代の銅や鉄の鋳造技術の話題に接したばかりでしたので、急遽この香春岳(かわらだけ)の麓にある「採銅所」駅で降りてみることにしました。

香春岳は、五木寛之の『青春の門 筑豊篇』の冒頭にも「香春岳は異様な山である」とあるように、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と比較的急峻な3つの山が連なり、中でも一ノ岳は石灰石の採掘のために平らに削られて白い岩肌を剥き出しているという姿が印象的ですが、この駅からは、間近に迫る三ノ岳にさえぎられて一ノ岳、二ノ岳は見えませんでした。
ここは昔は国内有数の銅の産地で、『国銅』の長門長登銅山と同様、ここの銅も奈良の大仏建立に使われています。
「採銅所」という地名は近代のものではなく、大変由緒ある名前なのです。

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駅から集落の方に下ると、古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)がありました。
長い階段を登ると、古い絵馬のかかった社殿。

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現代の社殿は安政4年(1857年)に再建されたものですが、その彫刻などからもただならぬ風格を感じます。

この神社の起こりは遥か和銅2年(709年)まで遡ります。
その昔、香春岳の麓にやって来た渡来人たちが三つの岳それぞれに神を祀りました。
ここ古宮神社は三ノ岳の豊比祥(トヨヒメ)を祀るための社です。

三ノ岳から産出される銅から作った銅鏡は、宇佐八幡宮のご神体として奉納されました。
宇佐神宮は現在全国四万四千社あるという八幡宮の総本社ですが、八幡神は元々鍛治神とも考えられており、奈良の大仏の建立の際には、この神が建立を助けるという託宣をし、国を動かしたことが『国銅』の中にも出てきます。
銅の鋳造技術を持つ渡来人集団の氏神を起源とする八幡神の本処は、実はこの香春なのかも知れないとも考えられているようです。

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国際的最先端鉱工業地域であった昔を思い浮かべながら、今は田園風景の広がるばかりの山すその旧道をたどって行きます。

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宇佐八幡宮のご神体となる銅鏡を鋳造した清祀殿跡。

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清祀殿の裏手には当時銅鏡を鋳造に使われたという石が残されていました。

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清祀殿の脇の小道から、段々畑の間を、三ノ岳の麓に向かって少し歩くと、


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銅の坑道跡である神間歩(かみまぶ)にたどり着きました。
柵がしてあって中には入れませんが、採掘に先立ち行なわれる神事のための祭壇なども残っているのだそうです。
『国銅』に描かれていた世界が甦ってきます。

銅は信仰の対象として、武器として、貨幣として、権力者の力の象徴として重要なマテリアルですが、半島や朝廷との関係の中で、香春産の銅が歴史上の事象にどうリンクしていくのか、さらに詳しく知りたいと思うのでした。

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コメント

この純銅の色といい、緑青色といい、銅ははるか昔から
日本の文化に根付いたマテリアルだとつくづく思います。

現在の硬貨も1円玉以外は全部銅合金ですもんね。

それにしても日田彦山線の小さな駅の町が、そんな大仰
なものだったなんて初めて知りました。というか、銅が
取れてたという事実も・・。(^^ゞ

投稿: wanwanmaru | 2007/09/12 22:30

>wanwanmaruさん
100円硬貨などは銅色ではないのですが、銅が主な素材なんですねぇ。
青銅っていうのも、緑青が出た状態をイメージしてしまいますが、本来銅色で、これに錫の含有量が増えるほど白銀色になるそうで、古代の当時の銅鏡などは白銀色~黄金色だったそうです。
青銅器のイメージなども、そうやって変換しないと当時の想像はできないようですね。

「採銅所」は、以前田川に赴任した際に、珍しい名前だなと思いましたが、三菱マテリアルなどがありましたから、てっきり最近の名前で、例えば「○○小学校前」とか「裁判所」などというのと同類と思っていました。
この辺り、まだまだ重要な史跡があるようで、近いうちにまた探ってみようと思っています。

投稿: 二つ目草 | 2007/09/13 07:57

大変御無沙汰をしてしまいました。
二つ目さんお元気でしたか?
3日ほど前に書き込んだつもりが・・・どうも確認画面で
終わってしまい、送信ボタンを押さずに居たようです。

採銅所、前から興味があったのですが、二つ目さんの記事を見て
ますます行ってみたくなりました。
しかし、一方記事を拝読しながら、もう一緒に
歩かせていただいたような気分にもなっています。

大仏殿も檜は宮崎産で、当時の近畿と九州の関係の深さを
物語っていますが、いずれにしても、半島-九州-近畿の
ラインでいろいろなことが起きていたのは間違いないですね。
その中でも、大動脈としての瀬戸内海の存在が浮かび上がってきます。

檜も銅も瀬戸内を曳かれていったと思いますが
採銅所から取り出された胴は、京都郡を横切り行橋あたりから
積み出されたか、はたまた日田彦山線の経路を辿る様に
小倉の港からなのか・・・想像を掻き立てられます。

直線距離だと行橋が圧倒的に近道でしょうが、
半島との関係を考えると、小倉経由というのも有かも知れませんね。
地形も踏まえて詳細に調べると面白いと思います。

遅ればせながら、ブログ開設3周年おめでとうございます。
これからも、この様な興味深い記事とすばらしい写真を
楽しみにしています。

投稿: 赤か毛 | 2007/09/15 11:32

あかがねの空、印象的ですね~。

古宮八幡宮の社殿、光線が良い時を逃さず捉えられて、
細工の素晴らしさが、良く分かりますね。

投稿: 純兵衛 | 2007/09/15 16:25

>赤か毛さん
コメントの入力の際に、時々認証のための英数字の入力を求められることがあって、ご迷惑をおかけします。

中間市で精神科をされている帚木蓬生氏の力作『国銅』は、奈良時代、長門の銅山から東大寺の大仏建立に派遣された男たちの話ですが、銅が瀬戸内海を運ばれる様子も描かれています。
香春の銅も大仏建立に使われていますが、九州内での経路はどうだったのでしょうね。
香春で鋳造された神鏡を八幡神に捧げる際には、杉の葉の神輿に銅鏡を乗せ、味見峠を超えて京都郡に降り、宇佐神宮まで行ったようです。

>純兵衛さん
この日の朝の朝焼けは、なかなかいい感じでした。
セイタカアワダチソウを前景に入れてみました。

昼近くには、かなり強い日差しになってしまい、あまりよい光線ではありませんでした。
絵的にはイマイチで、記録用の写真にとどまってしまいました。

投稿: 二つ目草 | 2007/09/15 22:38

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